3年G組清麿先生 第44
「バレンタインはVと略せ(後編)」


澄み渡った冬の空をバックに、白い息を吐きながらモチノキ中学校に向けて自転車をこぐ一人の女性がいた。
長い黒髪をアップでまとめ、縁の太い伊達メガネで変装した女性。魔物があちこちを出歩いているようなモチノキ町において、変装が必要な女性など、たった一人しかいない。
裏口の小さな門をくぐり、教員向け駐輪場に朱色の自転車を止めた大海恵は、軽やかにサドルから降りると、編み込みのバスケット型のかごから綺麗に包装された小さな箱を取り出した。

「さぁて、いよいよか。彼、人気者だからもう誰かに連れ去られちゃったりしてるのかしらね」

小さく微笑混じりにつぶやきながら、校舎内に入ろうとしたその時、彼女の体を振動が襲った。
それは一瞬の揺れだった。地震というよりは何か重いものが落下してきたかのような揺れだ。
この学校内でそんな感覚を味わうことはそう珍しいことではなかったが、たいていの場合、それは事件の始まりでもある。

「これは・・・正門の方向から?」

そんな事件の予感を肌で感じながら、思わず駆け出す恵。校内で発生した事件を解決するのは教師の役目。だが、文化祭の日以来、校内の事件の解決に奔走したことはなかった。

「いつの間にか、何かあったら駆け出す癖がついちゃったな。臨時担任をやっていたせいかな?」

そんなことをつぶやきながら中庭に駆け込もうとする恵の進路を塞ぐ者がいた。突然の出来事に足を止めることもかなわず激突してしまった彼女は、跳ね飛ばされるように尻餅をついてしまう。
朱色のリボンで彩られた小箱が、宙に舞った。

「あいたたた・・・なんだ、いったい」
「き、清麿先生っ?!」



「グラビレイ」
「ブルアアァァァ!!!」

淡々としたブラゴの声とともに放たれた重力の奔流に、為すすべもなく倒れ込むビクトリーム。

「ぐ・・・不意打ちとは、卑怯千万甚だしいぞ!?貴様、いったいなにを食べて育って来たーっ!!」
「おい、シェリー」

立ち上がることすら出来ないビクトリームの口上を聞き流すことすらなく、ブラゴは背後でまだ驚きの表情を隠せないシェリーに声をかける。
彼女はそれまで起きたことを理解できず呆然としていたが、不意にかけられた声で平静を取り戻し、言葉を返す。

「先生をつけなさい。先生を」
「・・・校門の外。もう一体いるぞ」

しかし、シェリーに再び帰ってきた言葉は望んだ返答でもなければ、彼女を怒らせる言葉でもなかった。不意を打つような状況報告に、思わず周囲を見回してしまう。
ブラゴが伝えた対象はすぐに見つかった。なんせ、校内を囲う壁よりも高い位置に、その頭があったからだ。

「あなたは・・・?」
「うわ!見つかった?!」

頭隠して尻隠さずとは言うが、頭も隠せていないのに驚かれても困るのだが、とにかくその魔物は驚きを表現するかのように、その場でぐるぐると回転し始めた。
その時シェリーは始めて気付いた。その魔物が椅子に座っているという事実を。街のど真ん中にもかかわらず、だ。
回転をそのまま続けながら壁を越えられる位置までふわりと浮き上がった巨大な魔物は、そのままゆっくりとシェリーの方に向かい始める。

「ビクトリーム!今助けるぞ!!」
「アイアン・・・」

しかし、その後の展開は1秒で決する。

「グラビレイ!」

空中から地上まで、たどり着くのはほんの一瞬。
が、名乗る暇すらなくたたき落とされた魔物・・・・ベルギム・E・Oにとって運が悪かったのは、椅子が自分の上に来る形で重力の本流を受けてしまったこと。
そして、ビクトリームにとって運が悪かったのは、その椅子が真上に来ていた時に、ベルギムが重力を受けてしまったことだ。

『ブルアアァァァァァァ!!!』

そして、重なり合う悲鳴。
あっと言う間に、ベルギムとビクトリームは重なり合うように押しつぶされてしまったのだった。

「あれ? おかしいなぁ・・・」

教室から職員室、そして屋上まで。
いそうな場所を巡って校内を歩き回ったものの、まったくその姿を見つけられず、しおりは首をかしげていた。
ついでに、先ほどまで聞こえてきた轟音の正体を目の当たりにして驚きながらも、心の中は探索の対象である清麿の方に向いていた。

「んー、やっぱり校門の方だったかなぁ。でも、清麿くんの姿は見えないし・・・」

そう呟きながら、周囲を見渡していたしおりの目に、校舎内の別の場所で止まる。
1Fの廊下・・・そこに清麿の姿を発見したのだ。しかし、そこにいた別の人影に、彼女は驚愕してしまう。

「清麿くんに・・・恵ちゃん?!」

「どうやら、騒ぎは収まったみたいですね」

清麿は、校庭に向かっていた足を止めながら、校庭に目をやっていた。シェリーとブラゴが収めた戦いの後始末のために、グスタフが校庭に出ているようだった。小脇に2冊の本を携えて。

「ええ。大騒ぎになる前でよかった。でも・・・いつの間にブラゴくん、あんなに協力的になったのかしら」
「どうでしょう。彼の行動については自分もまだよく分からないところがあって・・・」

文化祭の事件以後、ブラゴが登校してくる回数は確実に減っていた。
それでも、全く登校してこなかった頃よりはマシなのだが、決まって、彼が登校してくる時には校内で小さな事件が起きている。むしろ、ブラゴがいるお陰で大事には至っていないと言えるのかも知れないが、それでも、彼が動くたびに校舎のどこかが破損しているのもまた、事実だった。

「でも、信頼してるのよね・・・そんな目をしてるわよ」

恵に言われ、はっとしたような表情で振り返る清麿。
記憶をなくし、それでも教師として、生徒達と共に過ごすために必死で記録を読み直し、なんとか今日までをつないできたつもりだった。
だが、そんな中で、自分の中にある”何か”が、生徒達に接する時に頭をよぎる時がある。それが記憶の断片なのかどうかは、清麿自身にもよく分かっていない。
そんなところが表情に出ていることを恵に指摘されて困惑していると、ふと、その手を取られてしまう。

「今日は、そんな清麿先生にご褒美。そのために来たんだもんね」

その手に渡されたのは、先ほど宙を舞った小さな包み。綺麗にまとめられた小箱を手渡され、清麿は思わず赤面してしまう。
今日、この日が何の日であるかということぐらい、清麿自身も承知しているからだ。

「いつもティオを見てくれてありがとう。そして、これからも・・・ね」
「あ・・・はい」

思わず下を向いてしまいそうになる清麿だったが、これはまだ、戦いの序章に過ぎなかった。

「ちょーっと、まったーっ!!」

大声。そして階段を駆け下りる大きな足音。
大慌てといった感じで清麿と恵の間に割って入る女性の姿。
あわててつないでいた手を離した恵と清麿の間に割ってはいる形となったその顔に、思わず清麿は声を上げる。

「し、しおり・・・さん?」
「もう!私のことは呼び捨てで構わないって言ってるのに!」

かなりの距離を駆けてきたのであろう。軽く息を整えながら、しおりは清麿に食ってかかる。
その勢いに圧倒されるままになっている彼に、今度は大きな紙袋が押しつけられる。

「ほんとはちゃんとした形で渡したかったけど、これ!」
「え・・・?」

さっきから起きている物事の連続に、清麿はもう混乱しっぱなしだ。そして、突然の出来事に驚いているのは恵も同じだったが、驚いている時間は清麿よりも短い。それは、先の展開をある程度予想出来たからに他ならない。

「ちゃんと食べて感想、聞かせてね。徹夜で頑張ったんだから」
「あ、ああ・・・」

そして、驚いているものは他にもいた。
廊下の隅で様子をうかがっていた、水野鈴芽その人である。実は彼女、朝からずっと機会をうかがっていながらもタイミングを完全に逸し続けていたのだ。

「ああ・・・そんな、恵さんだけじゃなくてしおりさんまで・・・」

両目から涙をこぼしながら、うらやましそうな視線を向け、顔だけを清麿の方に向ける。
彼女に足りないのは、あの場に自ら踏み込んでいける勇気だ。それは自分自身でも分かっている。だが、それに加えて不安が心に引っかかった棘になっていることもまた、事実だ。
今、清麿は記憶を失った状態のままだ。もし、今後何かのショックで記憶を取り戻したとしたら、今日、この日の記憶をなくしてしまうかも知れない。実際、清麿を診てくれた医師からそんな話を聞かされている。
そして鈴芽は、清麿の記憶が戻って欲しいと願っていることもまた事実だ。幼なじみであったしおりほどではないが、鈴芽にも、清麿と過ごした時間を忘れたままでいて欲しくはないのだ。


「お、がんばってるな、水野」

夕暮れの教室。授業はもうとっくの昔に終わっていた。
時は1月。受験日を目前に控えたある日のことである。
図書室での最終確認を終えた清麿が戻ってきたその時、参考書を片手に書き取りを続ける鈴芽の姿を見かけた彼は、その懸命な姿に思わず声をかけた。

「うん。絶対、行くんだもん・・・」

高嶺君と同じ高校に。
答えかけたその言葉を飲み込んで、鈴芽はノートに視線を落とす。

「ほら、そこ。間違ってるぞ」
「う、うん。ありがとう」

そのノートをのぞき込み、指をさしながらの簡単な説明をする清麿。あいかわらずその説明はわかりやすく、過去の解法が頭から消えてしまいそうなほどだ。

「じゃあな。がんばれよ!」

清麿の爽やかな別れの言葉に、鈴芽は振り返ることはなかったが、その顔は清麿と同じく、ほころんでいた。
声をかけてくれた・・・それだけで嬉しかった、そんな時期。

結果的に、鈴芽の願いが叶うことはなかったのだが、絶対不可能と言われた進学先にチャレンジしたことを、先生は評価してくれたものだった。それがたとえ慰めの言葉だったとしても、鈴芽にとっては褒め言葉に聞こえていた。


「・・・?」

恵が、何かに気付いた。
そして、清麿の方に向き直る。

「じゃ、私、このあと仕事があるから失礼するね」
「え? せっかく来たんだからティオ達に会っていけば・・・」
「いいの。ティオにはまた夜には会えると思うから」

そう言って清麿の反論を押さえ込みながら、恵は同じく振り返るしおりに目配せする。それだけで、しおりも気付いたようだった。

「そか。それじゃ、私もコルルに見つかる前に帰らないとね」
「え?しおりさんも帰るのか?」
「そりゃそうよ。届け物はしてきたけど、そのあとも校内にいるとは思ってないもの、きっと」

取り繕うようにまくしたてるしおりの横で、視線を背後に向けた恵が、ぱちん、とウインクしてみせる。
その先にいるのはもちろん・・・鈴芽。

「じゃ、いきましょ、恵さん。あとでサインくださいね」
「しょうがないなぁ・・・みんなにはナイショだよ?」

談笑しながら、それでいて素早くその場を後にする女性二人。あとには、なかば呆然とした表情の清麿だけが残された。

「気付いた、かな・・・?」
「多分ね。例えどんなことがあったとしても・・・今日だけは、女の子みんなに平等じゃなきゃいけないもの」
「高嶺せんせ〜」

恵としおりの背後で、清麿を呼ぶ小さな声が聞こえた。
それだけで、二人は成功を確信し、微笑み合うのだった。


「よし、それでいい・・・」

グスタフが、2体の魔物の説得を終え、ある契約をかわしていた。淡い光が本に宿り、契約が成立したことを表している。

「これで、君たちもここの生徒になれる」
「本当だな?!これで俺たちは食事の心配をしなくて済むんだなっ!?」
「おい、みっともねぇぞベルギムの」
「いいじゃねぇか!おまえ、俺たちがここに来るまでどれだけの苦労をしたと思ってるんだよ。道に迷い、泥をすすり、それこそもう死にそうな思いをしてたどり着いたんじゃねぇかよ?!」
「おめぇ・・・嘘はよくねぇなベルギムの。たしかに俺たちは腹ぺこではあるが・・・たどり着くまでにそこまで大きな苦労はしてはいないっ!これは私、華麗なるビクトリーム様プロデュースの、美しき戦略の成果なのだっ!!」

ちなみに。
ナゾナゾ博士がビクトリームとベルギム・E・Oを閉じこめていた屋敷からモチノキ中学校までは、徒歩で10分程度の距離である。

「そんな大それた事は言うけどよ、結局のところ頭を飛ばして方角だけを確かめて、それだけを頼りに歩き回ってたら海までたどり着いたのはどこの誰のお陰だった?ああ?!」
「シャーラーップ!!」

いつまでも終わらなさそうな二人の会話を聞き流しながら、シェリーは、同じくその場にたたずんでいるブラゴを見ていた。

「ねぇ・・・どうして、助けに来たの? 以前だったら、こんなことは絶対にしなかったのに」

思わず、尋ねてみる。だが、答えはない。
よく見てみると、ブラゴはビクトリームやベルギムの方を見てはいなかった。そのずっと先にあるものを見据えているような、そんな目をしていたのだ。
そんなブラゴに、シェリーはちいさくため息をついた。どこまでもマイペースな彼に、仕方がないな、といった感じのため息だ。

「・・・来るぞ。奴が」

だから、その後のブラゴの言葉も耳に入らなかった。さらにその意味を確かめようとしたとしても、後から聞こえた声にかき消されたに違いない。

「ブラゴ〜! シェリー先生〜! 大丈夫なのか〜?!」

金髪の少年が駆けてくる。その後ろに、彼のクラスメート達も続いている。
その声に振り返るブラゴの背中を、シェリーはただ、見つめているだけだった。


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