血痕(けっこん)

あの時、あの人は言った。「明るい未来へ旅立つ」と。

─────しかしそれは、もはやかなうこともない。


 

「リチャード!」

おびただしい量の赤い液体があたりを染め、私の上着を引き摺るようにして、彼は赤い海の上に倒れた。

 どうしてこんな事になったのだろう。香貫花さんは間違いなく私のことに気がついたはずだ。それならばこのターミナルに厳戒体制が敷かれ、リチャード達の手から逃れるチャンスも出来たはずだ。そのあと、リチャード達は一網打尽。最悪、彼らに逃げられたとしても、リチャードがこんな所で死ぬような事はなかったはずだ。

「課長!」

 リチャードが倒れたのを見て、すぐに「黒崎くん」が駆け寄ってきた。当然といえば当然の行動だろう。自分の服が赤く染まるのも構わず、黒崎はリチャードを抱き起こす。私の上着はリチャードの支配から逃れていたが、リチャードに掴まれていた側だけがずりおち、右肩がむき出しになっていた。が、それを直す気も、また上着を脱ぐ気も起こらなかった。

 リチャードの唇が動いた。リチャードはまだ生きている!その事に、私は何故か安堵してしまう。まだ、心の隅に残るリチャードへの思いは、消えてはいないのだ。

 リチャードは黒崎に何かを伝えたのだろう。私はそばにたたずんだまま、その様子を眺めている。

「話があるそうだ」

 不意に、顔を上げた黒崎がこちらを向いて短く言う。少しむせたような動作を見せたリチャードの様子に、慌てて私は彼のそばにしゃがみこんだ。

「タケオ……」

 かすかにふるえてはいたが、リチャードの口調はいつもと変わらない。下腹部から広がっている真っ赤な染みがなければ、ナイフで刺された、などということは信じられなかっただろう。

「すまなかったね、オーストラリア、連れていけそうにないよ」

「まだそんなことを言ってるの?」

リチャードの言葉に、思わずあきれてしまう。自分の体の事は心配ではないのだろうか?その疑問は、すぐに私の口をついて出た。

「ははは、そうだね」

しかし、リチャードは笑って答えた。まるで、こちらの心配をあざ笑っているようで、私は何だか腹が立ってきた。

「心配はいらないよ」

リチャードが、そう言いながら左手で私の頬に触れた。右手はまだ、私の上着を握ったままだ。

「黒崎くん達がいるからね」

そう答えながら、視線を一瞬黒崎の方に向ける。黒崎は、何も言わず、ただ頷いた。

「リチャード……」

その名が、思わず口から漏れる。安堵の表情を浮かべるリチャードだったが、彼を抱き抱える黒崎の表情を見ていると、安心などできるはずもなかった。

「一つ、聞いていいかな」

再び、リチャードがこちらを向く。その下腹部からは、まだ血が流れ出ている。

「あの日……ぼくが香港で君の元を離れた時、もしも僕が君を連れて行っていたら、僕らは幸せに暮らせたかな?」

その言葉が耳に届いたとき、私の心を何かが走った。止めることの出来ない、いや、止めたくない涙が、両の頬を流れ出す。

「そ、そんなの……」

「答えて」

強い口調で、リチャードが言葉を重ねる。サングラス越しの細い目が、黒い壁を通り抜けて私を射ぬいていた。その目が伝えたい事、その質問の本当の意味、どちらも私には分かっていた。しかし。

「……私はついてはいかなかったわ、どんなことがあっても。私は、警察官なのよ」

その目に反発するかのように、私は強い口調で答えた。しかし、心のどこかで、その言葉とは全く逆のことを考えているのが、はっきりと分かった。

「そうか……どっちにしてもふられる運命だったんだなー」

急に、リチャードの口調が沈んだ。心なしか、顔全体に暗い表情が浮かんでいるように見える。

「そうね」

私の涙は止まらなかった。しかし、私はこう答えるしかなかった。

「黒崎さん!」

別の場所から声がかかった。駆け寄ってきたのは、私が香貫花さんと接触しようとした時に同行していた……たしか青砥という名前の男だ。

「……か、課長!」

青砥も、さすがにその光景には唖然としたが、すぐに黒崎に駆け寄ってくる。

「急いでください、長城号が出ます」

穏やかだが、強い口調で黒崎を急かす青砥。だが、

「先に行ってくれ。私も後から行く」

対する黒崎の返答はこれだけだった。その顔はずっとリチャードの方を向いており、一瞬、青砥を一瞥しただけである。仕方なく、青砥はその場を後にした。

「課長、動けますか?」

しかし、さすがに焦っているようで、黒崎は目を戻して問いかけた。だが、返答がない。その様子に、私もリチャードの様子を確認する。目が細いので、ただ眺めただけでは閉じたことが分からないのだ。

「リチャード?」

思わず呼びかけ、顔を近づける。触れ合うかと思うぐらい近づいたその時、唇から吐き出された息が、私の顔にかかった。

「……!」

だまされたと思い、再び怒りが沸いてきた。顔をリチャードから離して立ち上がり、それまで中途半端に着ていた上着を脱ぎ去る。

「もうすぐ警察も来るわ。それまで大人しくしていることね」

今までにない強い口調で、私は言い放った。だが、黒崎はその言葉に反するように、リチャードを抱えたまま立ち上がった。

「そういうわけにはいかない」

黒崎の目がリチャードを離れ、私の方を向いた。

「課長は、必ず助けてみせる。私がな」

そう言い残すと黒崎はリチャードを抱えているとは思えない素早さで身を翻した。

「!待ちなさいっ!」

追いかけようとし、制止の声をかける私に対し、黒崎は私に背を向けたまま言い放った。

「あなたは疫病神だ。あなたがいると、助かるものも助からない」

その言葉が、私の胸に突き刺さった。私が彼らの中に入り込んだから、彼らは全てを失おうとしているのだ。

「あなたがいなければ、課長は必ず助かる。どちらにしてもあなたはもう、課長に会うことはないでしょうがね」

もう絶対、あなたと課長を会わせない。そんな思いのこもった声が、鋭い刃となって私を責める。しかしそれも一瞬のことで、黒崎はそのまま走り去ってしまった。

 私は追いかけることが出来なかった。血と、涙があふれる床の上で、ただ、立ちすくんでいるしかなかったのだ。

 私の涙は、涸れるまで流れ続けた。

 それから、3ヶ月が過ぎた。

 結局、その時に取り押さえられたのは「パレット」の関係者だけだったという。リチャード・王や黒崎、そしてその周りにいた者達は全て逃亡に成功したらしい。そのほとんどは長城号に乗り込んだようだったが、黒崎は乗り込んでいなかったようで、そこからぷっつりと、彼らの消息は途絶えた。もちろん、リチャードの生死も、その行方も。

 3ヶ月の休職の後、私は現場に復帰した。復帰直後なので、みんなは何かと気を使ってくれるが、私はその心遣いだけを受け取ることにしている。

 まずは、私がいなかったことによってできた様々な穴を埋めることから始めなければならない。しかし少なくとも、2機のイングラムの指揮を任されていた篠原くんの肩の荷は降りただろう。

 襲撃の跡も分からないぐらいに修復された特車二課棟に、なんら新しいセキュリティシステムが配備されなかったことには、さすがに驚かされた。早速、上申書を提出しなければならない。ただでさえ、警察機構として、職場としての条件が悪い場所なのだ。

 夕方になって、私は屋上に出た。海から吹いてくる風が心地よい。陽はまもなく大地に没しようとするところで、空を真っ赤に染めていた。

「熊耳さん……」

背後から声がした。声からすると泉さんに違いない。振り返ってその姿を確認し、表情を確かめる。

「あら、泉さん。どうかしたの?」

「いえ、あの、その……」

泉さんは何かを言いたそうな表情でこちらを見ている。この様子からすると、篠原くんに言われてここまで来たのだろうか。もしかしたら、後藤隊長の差し金かもしれない。

「聞きたいことがあるんじゃないの?」

しばらくたっても何も言い出さないので、こちらから聞いてみることにした。その言葉に反応して、泉さんがようやく口を開く。

「熊耳さんは、あの人……内海さんのこと、好きだったんですか?」

いきなり核心をついてくる質問だった。一瞬だけ、心の中を何かが通り抜けたが、気持ちの整理をつけた今では、動揺したりすることはなかった。

「どうなのかしらね……私にも分からないわ」

私はそう答える。嘘をついたつもりはない。しかし、それが正直な気持ちではないことも、私には分かっていた。

 警察官である自分と、女性としての自分。リチャード・王という男の存在は、私という人間の中に、その二つが存在することを教えてくれた。そして、その二つが自分の中で同時に存在し得ない人が、彼だということも。

 結局、私は警察官としての自分を選んだ。昔も、今も。

 後悔しているのかもしれない。もう会えないと思っていた運命の男性との再会と、そして別れに。だが、その後悔に甘えるつもりはもちろんない。

「ごめんなさい、こんな事聞いて……」

 しばらく黙っていた私を見て罪悪感を感じたのか、泉さんが謝ってきた。

「いいのよ。気にしないで」

くすりと笑い、私は泉さんに歩み寄ると、その肩をぽんとたたいた。

「さ、戻るわよ。やらなきゃいけないことはたくさんあるわ」

「はいっ!」

元気よく泉さんが答えた。やはり、彼女は元気よく動いているのが似合う。

 その時、サイレンの音が響き渡り、第二小隊の出動要請を告げるアナウンスが聞こえてきた。

「……どうやら、仕事が増えたみたいね。急ぐわよ!」

「はい!」

私は泉さんと共に階段を駆け下りる。復帰してから、初めての出動だった。

 結果的に、晴海の客船ターミナルでの事件は、私の心に痕を残した。赤い色をしたその傷痕は、自分の行動が元となって引き起こされた、消えることのない血痕なのだ。